追悼 ジョン・レノン

追悼 ジョン・レノン

1980年12月8日、ジョン・レノンはグリーンパークの外側にあるマンション、ダコタの入口で、銃弾によって命を失われた。けれどもジョンは今も私たちと共に生きている。平和を愛し,守るために生きたジョンと共に、私たちも努力をしよう。


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ブラザー・サン、シスター・ムーン


静かなるエッセイ「ブラザー・サンシン・スタームーン」 十二月
 
 苦しい時の神頼みしかしないご都合主義の無信心な私なのに、クリスマスが来る十二月に入ると落ち着かなくなる。世界の各地にいる家族、友人、知人にカードやプレゼントの発送をする。クリスマスを祝わない人(無宗教)には、「シーズンズ・グリーティングス」。我が家には、形だけ真似て、室内に樅の木やろうそくのデコレーションもする。
 実は私の父が家の庭に建てた集会所を「石神井文化会」として、様々な講座を講師を招いて行っていた。その中に「日曜学校」があり、アメリカ人の家族によるキリスト教新教の教えが、通訳によってなされた。きれいな絵の聖書の一節を書いたカードが配られ、それで未だに「主の祷り」は暗記している。クリスマスには、キャンディーやチョコが詰まった、見たことも無い奇麗な靴下が配られて、私たち子どもは大喜び。  
 そんな過去の雰囲気が懐かしく心に染みついていて、イブになると今でも、友人の家庭でのパーティーばかりでなく、教会のミサに参加する。日本であれ外国であれ、そのときにいる町のどの教会でもいい。一歩教会の中に入ると野次馬精神が消え、厳粛な気分になるのが非日常的で、だらりとした私には、ぴりっとしたよい薬となる。
 今までで比較的印象に残るのは、六本木の聖フランチェスコ会のミサ。気紛れの私には珍しく、続けて何年か参加した。二〇十九年のミサにも参加した。その都心にある教会での特徴は、キリストの生誕の場面が人形で展示されていること。楽しく微笑ましく、厳粛さよりもいかにもお祝いに立ち会っているという感じがいい。
 その装置は、その派の創始者、聖フランチェスコの案だという。詩や音楽が好きだった、師らしい〃演出〃である。実は私は、以前からフランチェスコに興味を持っていた。それで彼の生きた町、イタリアのアシジを二回訪れたこともある。
 というのは、彼は、太陽や月や星から風や水や大地にいたるまで、この世の中のすべての存在を平等に見、兄弟、姉妹と呼んで慈しんだからである。そして動物や鳥にもお説教をしたのだという。なんと無邪気な、優しい、ユーモラスな人なんだろう、と思ったのだ。
 そんなフランチェスコの生涯は映画に成り、彼の作った詩「ブラザー・サン、シスター・ムーン」は映画の主題歌として、歌手ドノバンにより作曲され歌われ、大ヒットした。私も何回映画を観、歌を歌ったことだろう。当時訪れたアッシジも、数々の寺院と広々とした畑や木々が緑の光りを放っていた。 
 考えてみれば、このような人こそ、この二十世紀の荒廃した地球に必要な人材なのである。でもそんな考えを他人に委ねずに、せめてその精神だけでも学ぼうと、伝記などを読んだのだった。聖フランチェスコは、一九七九年「環境保護に携わる人々の保護の聖人」とされた。

 クリスマスを見送ると、今度は近所のお寺からお招きがある。もちろん除夜の鐘撞だ。しっかりと防寒具に身を固めて行くと、大きな焚き火が赤々と燃え、少しも寒くない。長い竹棒の先に刺したつきたてのお餅が、焚き火の火で香ばしく焼かれている。甘酒と一緒にふるまわれ、鐘撞きの列に並ぶ。闇の中に、久し振りで故郷に戻った人々の笑顔が溢れる。「おめでとう!」と口々に。ここもまた、厳粛さというよりは、一年を再び同じ所で送り、迎えられたお祝いという喜びの場である。それは誰か特別な人のためでなく、生きとし生けるもののためである。 
 こうなると、初詣でにも行かざるを得ない。今年はどこの神社に行こうかしら。まったく私は典型的な日本人だなあ。 信仰も持たないのに、儀式をその場その場で都合良く、軽くやってしまうなんて。
 けれども誓って言えるのは、自分のことはもとよりだが、世の中の幸せと平和を強く願っているということ。いつも自分が恵まれたことに感謝し、他人(動物も含む)にも分かち合おうと思っていること。願ったり、祈るだけは簡単……。ならばよけいに思いを込めよう。
 こう決心した年末が開けると、二〇二一年は「コロナ時代」と成ってしまった。地球とそこに生きる生物の運命はどうなるのだろう・・・・・・・ 
 
 
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