ブラザー・サン、シスター・ムーン
2021/12/08 Filed in: エッセイ
静かなるエッセイ 「ブラザー・サン、シスター・ムーン」 12月
苦しい時の神頼みしかしないご都合主義の無信心な私なのに、クリスマスが来る十二月に入ると落ち着かなくなる。世界の各地にいる家族、友人、知人にカードやプレゼントの発送をする。クリスマスを祝わない人(無宗教)には、「シーズンズ・グリーティングス」。我が家には、形だけ真似て、室内に樅の木やろうそくのデコレーションもする。
実は私の父が家の庭に建てた集会所を「石神井文化会」として、様々な講座を講師を招いて行っていた。その中に「日曜学校」があり、アメリカ人の家族によるキリスト教新教の教えが、通訳によってなされた。きれいな絵の聖書の一節を書いたカードが配られ、それで未だに「主の祷り」は暗記している。クリスマスには、キャンディーやチョコが詰まった、見たことも無い奇麗な靴下が配られて、私たち子どもは大喜び。
そんな幼き日の雰囲気が懐かしく心に染みついていて、イブになると今でも、友人の家庭でのパーティーばかりでなく、教会のミサに参加する。日本であれ外国であれ、そのときにいる町のどの教会でもいい。一歩教会の中に入ると野次馬精神が消え、厳粛な気分になるのが非日常的で、だらりとした私には、ぴりっとしたよい薬となる。
今までで比較的印象に残るのは、六本木の聖フランチェスコ会のミサ。気紛れの私には珍しく、続けて何年か参加した。2019年のミサにも参加した。都心にあるその教会での特徴は、キリストの生誕の場面が人形で展示されていること。楽しく微笑ましく、厳粛さよりもいかにもお祝いに立ち会っているという感じがよかった。
その装置は、その派の創始者、聖フランチェスコの案だという。詩や音楽が好きだった、師らしい〃演出〃である。実は私は、以前からフランチェスコに興味を持っていた。それで彼の生きた町、イタリアのアシジを2回訪れたこともある。
というのは、彼は、太陽や月や星から風や水や大地にいたるまで、この世の中のすべての存在を平等に見、兄弟、姉妹と呼んで慈しんだからである。そして動物や鳥にもお説教をしたのだという。なんと無邪気な、優しい、ユーモラスな人なんだろう、と。
そんなフランチェスコの生涯は映画に成り、彼の作った詩「ブラザー・サン、シスター・ムーン」は映画の主題歌として、歌手ドノバンにより作曲され歌われ、大ヒットした。私も何回映画を観、歌を歌ったことだろう。当時訪れたイタリアのアッシジも、数々の寺院と広々とした畑や木々が緑の光りを放っていた。
考えてみれば、このような人こそ、この二十世紀の荒廃した地球に必要な人材なのである。でもそんな考えを他人に委ねずに、せめてその精神だけでも学ぼうと、伝記などを読んだのだった。聖フランチェスコは、1979年「環境保護に携わる人々の保護の聖人」とされた。
クリスマスを見送ると、今度は近所のお寺からお招きがある。もちろん除夜の鐘撞だ。しっかりと防寒具に身を固めて行くと、大きな焚き火が赤々と燃え、少しも寒くない。長い竹棒の先に刺したつきたてのお餅が、焚き火の火で香ばしく焼かれている。甘酒と一緒にふるまわれ、鐘撞きの列に並ぶ。闇の中に、久し振りで故郷に戻った人々の笑顔が溢れる。「おめでとう!」と口々に。ここもまた、厳粛さというよりは、一年を再び同じ所で送り、迎えられたお祝いという喜びの場である。それは誰か特別な人のためでなく、生きとし生けるもののためである。
こうなると、初詣でにも行かざるを得ない。今年はどこの神社に行こうかしら。まったく私は典型的(?)な日本人だなあ。これといった信仰も持たないのに、儀式をその場その場で都合良く、軽くやってしまうなんて。
けれども誓って言えるのは、自分のことはもとよりだが、世の中の幸せと平和を強く願っているということ。いつも自分が大方は恵まれたことに感謝し、他人(動物も含む)にも分かち合おうと思っていること。願ったり、祈るだけは簡単……。ならばよけいに思いを込めよう。
こう決心した年末が開けると2021年は「コロナ時代」となってしまった。地球とそこに生きる生物の運命はどうなるのだろう・・・・・・・。