ソローヒルガーデンの庭のホームページをこのブログに移動しました。これまでのはホームページでご覧ください。
タチアオイ2012年/6月
Solo Hill Garden Hollyhock
梅雨の頃の庭には、タチアオイが満開になります。
群生を作り始めてから数年になりました。最初は1カ所でしたが、今は庭の5カ所と階段やボーダーに種をまいておいて、
あちこちに咲かせています。6月19日は台風が来て、だいぶ倒れてしまいしましたが、幸い、梅雨の晴れ間にビデオで撮影しておきました。
コンパクト・デジカメのビデオと内蔵のマイクで撮影しました。ぶっつけ本番で、しかも初めての編集で不出来ではありますが、ご笑覧下されば幸いです。
動画はこの写真をクリックしてください!画質はハイクオリティーなので、
ローディングに時間がかかるかもしれません。
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今頃の庭にはたくさんの梅雨の頃の花が咲いています。毎年、同じ花ですので、今年は、
私のつたない下手な絵ですみせん。写真はホームページsolohillgarden.com
の方でご覧になれます。
All illustrations © 鶴田静
アジサイ
梅雨の花と言えばアジサイ。日本原産。房総半島や伊豆半島に自生するガクアジサイが
原種。花の色の移り変わる美しさは宝石を見ているよう。
他に北アメリカ原産の真っ白いアジサイ、アナベラもある。庭には、母の代からの古株を中心に
10株ほど。それから挿し木で殖やしている多数の苗もある。
クチナシ
一重。かぐわしい香り。この花が実になり、染料になる。
他に華やかな八重クチナシ、星をちりばめたような低い株のコクチナシもある。
八重クチナシには実が生らない。昨年は2,3個ついたが。
テッポウユリ
日本原産のユリ。欧米ではイースター・リリーと呼ばれるらしい。
他の各種ユリはほとんどモグラに食べられてしまったのだが、このユリだけは、
あちこちで花を咲かせてくれる。今年は1本に6個の花が付いた。
香りがすばらしい。
キョウチクトウ
高木の常緑樹。花は今頃から咲き始めて秋までずっと咲き続ける。紅色、白、ピンクなど、10本ほど植わっている。毒のある木だが、5弁の花はかわいらしい。
花のエッセイ
「二人の画家が描いた花」
ホタルブクロ
梅雨の日、ぬれて黒々とした道を行くと、薄暗い草陰から、「足もとにお気をつけて」とでも言いたげに・ランプをいくつもつるした茎がたおやかにしなだれている。ホタルブロクの花は長さ数センチのつり鐘形だから、それだけでも目印になる。子どもが蛍をこの花の中に入れたから付けられたという「蛍袋」の名のように、光る蛍がこの花の中に宿ったら、どんなにか明るく美しいことだろう。
ホタルブクロが咲くころにはちょうど蛍が盛んに舞う。ある晩、散歩に出た。田んぼに舞う蛍と一緒に踊って遊んだが、蛍が疲れたようだから、「この中に入って、お休みなさい」と、闇の中で白く浮かんでいた花を一つとり、蛍をすくい入れようとしたのだけれど失敗してしまった。その時、いつか見た二枚の絵が心に浮かんだ。
一枚は〃生物画家〃熊田千佳慕さんの細密画。花や葉や茎についている毛の一本一本まで、克明に力強く描かれた一本のホタルブクロ。その薄いピンクの花の上に、じっととまっている蛍は、漆黒の星空の中で、真っ黄色ツの光を、花に負けない命の限りの強さで放っている。「ほたるぶくろは/雨の季節の 花の宿」と詩に書いておられる。この宿に泊まるのはきっと、遊び疲れた蛍だろう。そしてこの蛍のぬくぬくとした寝床になる花こそ、熊田氏その人自身なのだ、氏は「私は花 花は私」と言っておられるから。
もう一枚は渡辺淳さんの絵。福井県若狭在住で、同郷の作家、水上勉の著書七〇冊以上の表紙絵や挿画をてがけていっしゃる。氏の愛する若狭を、ある日一日かけて案内してくださった。
ホタルブクロについて。「花が下を向いているので、蛍をそのまま入れると、すぐ落ちてしまうんですわ。花を上に向かせるといいんだな」とその極意を教えてくださった。袋の中の蛍を、著書『山淑庵日記』にこう書かれている。「真っ暗闇の中で、蛍は青白い光を点滅し始めた。まるで大きく息をするかのように。それは花と蛍が一体になった鼓動かとも想えた。(中略)かなしうて美しい点滅。そこに、花と蛍と私の命を見たように想え戦傑した。言葉で云えない神秘なものだった」
その蛍は「あおい想いを」という題の幻想的な絵になった。青と黒が溶け合った闇の中にぼおっと浮かぶ花たち。その一つの中に宿った蛍の光は、金粉のように闇空に散りまかれている。
二匹の蛍とホタルブクロの花たちは、二人の画家によって永遠の命を与えられ、輝いているのだ。
ホタルブクロの花の表面には、鐘の鋳型のような5本の線が縦に入っていて、形は硬質なのだけれど、その淡い赤紫色は、筆にたっぷりと水を含ませてさっと塗ったようににじみ、水彩画の風合い。いつも下を向いている花の内側をそっとのぞいてみたら、表側よりも濃い色の水玉模様が一面に散っていた。真ん中の長い雌しべは先端が三つに割れ、鐘の振り子のよう。どちらがまねをしたのか、自然の造形と人工の造形、こんなによく似ているのはどうしてなのでしょう。
似ているといえば、花の名前も形の似ているものからつけられる場合が多い。このホタルブクロも、ちょうちん(火垂る袋)の形からチョウチンバナとも言われ、「火垂袋(ほたるぶくろ)」とも書く。まったく、自然の創造性と人間の想像力は、せめぎ合いとどまるところをしらないのですね。
[ホタルブクロ] キキョウ科花の長さ4-5㎝高さ40-m㎝多年草
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「同じ色を着たい花」
シモツケソウ ヤナギハナガサ ヒメヒオウギズイセン
私はこれでもけっこうおしゃれが好き。子どものころバレエを習っていて、発表会に着る衣装がとても楽しみだった。衣装や洋服は、家庭科の先生だった叔母や、これまたおしゃれ好きな姉が縫ってくれた手製ばかりだった。大人になると私は自分でデザインして自分で縫ってみたが、、下手だったので他人に頼んだ。買う服は流行物で、ミニスカート、ヒッピーファッション、ロングスカート、ベルボトム、アジアン・エスニックとどんなスタイルでも着てみた。写真家志望だったころは、そういう服を着た自分をセルフタイマーで撮っていたほど。
色黒の私に似合う色は、赤や黄やオレンジや濃いピンクの原色ばかり。そんな色ばかりを好んで着ていたから、かなり派手だりたのだ。ところが田舎に住みはじめると、服の色の好みが変わった。青、緑、茶、黄、白など、都会にいたときとは反対の色。東京から持ってきた原色の服は、全部リサイクルに出してしまった。
青、緑、茶色は大地と同じ色。自然の中に溶け込みたい、という気持ちが、私に自然と同じ色を選ばせたのだろう。それに色鮮やかな野の花の数々を見ると、私が花の色と同じ色を着るなんて傲慢でおそれおおい、と思ったのだ。鮮やかな色の花は華やかさを醸し出し、見る人の心をぜいたくでゴージャスな気分にさせてくれる。でも私が着たって色ばかりが目立つだけ。中身がついていかないようで、自然に対して恥ずかしい。とまあ、大自然を前にして、謙虚な気持ちになったのです。
でも、また明るい色を着たくなった。派手すぎるかしら、若作りかしら、こんな服装するの奇抜すぎるかしら、流行おくれかしらなどと薦躇しないことはないけれど、どんな色や形もその深い懐に抱いてくれる自然の寛大さが分かったから、私も花の色を楽しんで着ようと思う。若いころに私がよく着ていた服の色の花がある。たとえばヒメヒオウギズイセン、シモッケソウ、ヤナギハナガサ。その花の華やかさを見ると、若き日の自分がよみがえる。いえいえこれからだってまだ……。
ヒメヒオウギズイセン
串黄色い春のフリージアの花を、真夏の太陽が緋色に染めたようなヒメヒオウギズイセン(姫緋扇水仙)。この季(とき)は私のもの、とばかりに群れをなして咲き誇る。毎年この花が咲くと、ああ、ほんとうに夏だ、と再会する新しい季節に心躍る。ヒメヒオウギズイセンは、一八八○年に外国で品種改良されて、明治の中ごろに渡来した園芸種だが、半自生している。花壇ばかりでなく、道端や草むらにも咲いている。球根でふえて、自然にあちこちに進出するのだ。
我が家の野生的なヒメヒオウギズイセンは、おそらく栽培物よりは小さい(野生の花に同じアヤメ科のヒオウギがあり、花は似ているがより大きい)。一本だけたおって、オレンジ色の強烈さに似合わない清楚なその姿をめでるもよし。たくさん集めて、その華やかさを楽しむのもよし。この花が終わるころ、ヒマワリやアサガオが盛る。
[ヒメヒオウギズイセン]アヤメ科花径3-4㎝高さ50-80㎝多年草
シモツケソウ
初めてシモツケソウと出会った時の感激を、忘れることはできない。深いピンクのガラスの粉のようなきらびやかなかたまりが、茎の上で揺らめいていた、これまで、こんなに美しいものを見たことはない、とさえ思った。ほおっとため息だけがもれ、それは、不可視の妖精たちに向けた問いかけになった。「あなたは誰? あなたを作ったのは誰?」植物は、どうしてこんなにも鮮やかな色を出し、こんなにも美しい姿になるのだろう。それに答えてほしかったのだ。もちろん、妖精たちは今もってこたえはくれない。 そのかわりに毎年、ショッキングピンクといえるようなピンクのきらめきをなびかせて、妖精たちがそこにいることを私に知らせてくれる。下野国(しもつけのくに・栃木県)で発見されたシモツケという落葉小低木に花が似ていることから、「下野草」と名がついた。
[シモツケソウ]バラ科花径4㎜高さ30-80㎝多年草
ヤナギハナガサ
暑さの中でも涼しげな緑の草々を背景にして、濃いピンクの花の球が、高さ1メートルもある細い茎の上で群れて咲き、ゆらゆらと風に揺らいでいる。その様は、花を詰めたかごを頭の上にかかげて、踊っているみたい。栽培の花かと遠くから見ていたのだが、空き地にばかり咲いているのは不思議、と近寄って見ると、それは珍しいヤナギハナガサだった。小さい5弁のピンクの花が、一つの花の頭を3センチから5センチの大きさにしてついている。丈の高さにしては小さい葉が、根元のほうにちょこちょことついているだけだから、よけいに花の球が強調されている。「柳花笠」は夏の夜の盆踊りを思い出させるにぎやかで華やかな花。南アメリカが原産なのだから、こんな色の衣装を着てサンバでも踊ろうか。真夏の太陽の下でも楽しそうに踊る力強さがある。
[ヤナギハナガサ]クマツヅラ科花径3㎜高さlm多年草
夏の華やかな色の花には、黄色のヒマワリも代表的。もちろんヒマワリは大好きで、毎年咲かせている。この強い黄色も私の服の色だったし、今も着る。夏ってやっぱり、原色を着てもそれほど目立たず、恥ずかしい気もそれほど起こらない。それは季節をとりまく自然が激しく情熱的だからだろう。夏には原色を着よう、花の色に学んで。そして私が老人になったら、赤や黄やピンクやオレンジの色の服を着て、色だけでも美しくし、お化粧をして、華やかで楽しいおばあさんになろう。
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「緑陰の佳人たち」
ヒルガオ コヒルガオ オオバギポウシ
とっておいた種からアサガオを咲かせるのが、毎夏の私の習慣。朝露にぬれて、〃天上の青"や濃い紫や紅色の大輪がすがすがしい。アサガオとは"朝の美女"という意味だそうだから、毎朝、美女に会えるのはなんとも喜ばしい。ところがこの美女は、昼前までにその顔を隠してしまう。そして真昼の野に出てみると、そこでもまた"美女"に会えるのだからうれしい。「昼顔」である。太陽の光のもとで一生懸命に咲いているヒルガオの容花(かおばな。美しい姿の花)は、なんと涼やかな表情をしているのだろう。薄いピンクの色ながら、その姿をくっきりと見せて、ぼうぼうと茂った緑の草々にそのつるをからませて。
歌人、与謝野晶子は「遠方(をちかた)のものの声よりおぼつかなみどりの中のひるがほの花」と歌っているけれど、私には、情熱の歌人、晶子のようにしんの強い佳人に思える。
ヒルガオは、江戸時代から栽培改良されてきたアサガオと違い、品種改良されることなく野生のままの端麗さを保っている。ヒルガオ科のアサガオは、平安時代の初めに薬草として中国からもたらされたらしいという。ヒルガオも、利尿や強精のために使われるというが、学名にジャポニカとあるから日本原産なのだろう。
別の野で、そのつるをからませる高い茉がないので地面をはっているぎルガオを見た。花はヒルガオより小さく、ピンクの色は薄く白っぼい。それでもやはり、精一杯に開いていて、可憐だが力強い。アサガオもそうだが、ヒルガオやコヒルガオの美女を見ない夏ほど寂しいものはない。
[ヒルガオ]ヒルガオ科花径5-6㎝つる性多年草
[コヒルガオ]ヒルガオ科花径3-4㎝つる性多年草
オオバギボウシ
私の記憶では、まだ小学校前から最も早く覚えた花の名がギボウシだといったら、なんておませな、と思われるかもしれない。生家の庭の隅の垣根の下に群生していて、私は「あのオボウシ、ネきれいねえ」と見るたびに言っていたのだ、帽子とまちがえて。正確にはオオバギボウシ。子どもとこの花はあまり似つかわしくない。薄紫の楚々とした風情、透き通るような花びらに、濃い紫の脈が通り、開きたくても全開しないような鐘形の花は、じっと耐えているだけに見えて実はしんの強い、大人の女性、それも美人を思わせるからだ。
その美女に、なんとなく「源氏物語」の女性を重ねるのは、漢字で「擬宝珠」と書くからだろう(擬宝珠は、橋の欄干の柱の頭にかぶせるものだから、やっぱり帽子だわ)。そんな花の茎が伸びて、葉の茎よりも高くなり、先端から10個以上の美女、いえ花をつけるのだから、見るほうにしては得した気になる。
得といえば、幅広で裏面に筋の入った葉は、花の茎からでなく、根元から生えるのだけれど、その柄は、春の若いときに食べられる。ゆでて、あえ物やおひたしに。ほらね、お得でしょう。
そういえば、私がオボウシと呼んでいたころーもう半世紀も前、戦後の食糧難で、祖母や母はこの若い葉や柄をおかずの一品にしていたっけ。ゆでておひたしにし、削り節をたっぷりとのせて。私にはほうれん草のおひたしとの違いは分からなかったけれど。東北出身の母は、〃ウルイ"と呼んでいた。食用になるから、せっせと庭にも植えていたのだろう。"美女"も災難を体験したのですね。
平和な現代では、この花を見たいがために山を歩き、林を分け入るのだ。緑陰の佳人に出会えれば、その日は幸せ。
[オオバギボウシ]ユリ科花の長さ4-5㎝ 高さ50㎝多年草
以上は 鶴田静著『出会いたい野の花たち』(文化出版局)刊より
いきものを知る
「蛍の夜」
暗い梅雨の季節にうれしい贈物は、そぼ降る雨の中で清楚な姿をますます清らかにする花々。ぼかし染めのような紫陽花、白いベルベットの手ざわりのドクダミの花、ピンクの絹糸を束ねたようなネムの花。小花を笹に似た葉につけるトキワツユクサ。どれも沈む風景の中で、ちらちらと瞬く灯のようだ。
どの花にもまけずこの時季になくてはならない花、それはホタルブクロ。私が楽しみにしているのにはちがいないが、ホタルブクロはもっと強く、文字通りの蛍たちを待ち焦がれている。蛍は梅雨の天使、雨からの特別な使者。
水辺に棲み、水を食物としている生きている蛍は、まさに水の申し子。その蛍が、雨を避けて一夜の宿とするのがホタルブクロの花の中だという。ホタルブクロの花は、胴体が長くて口がすぼまっているから、蛍がスッと入り込んでその中で安眠するために適した形をしている。蛍がわざわざこの花を選んでいっときのすみかとするのが本当ならば、とても賢い。
夜、真っ暗闇の中。青々しい光を発してたんぼの上を乱舞する蛍たち。手探り、いや足探りで畦道を行くと、蛍が私の前を飛んで行き、ほのかな照明となってくれる。飛び回る蛍は雄で、稲の穂についてじっとしている蛍は雌だとか。人間にも犬にも似ている習性だ。
ついてきた蛍と一緒に家路につくと、蛍もまた家の中に入ってくる。私は電燈もつけず、蛍と私だけの密やかなときを持つ。蛍はいぶし銀のような光を輝かせ、私を夢路へ誘おうとするのだが、私はしばらく幻想の世界で遊んでいたい。
昔、蛍を掴まえてホタルブクロの花の中に入れ、明かりにして夜道を歩いた、と語る人がいる。ホタルブクロは一本の茎に五つ以上の花をつけるから、その全部に蛍が入ったとしたら、とても豪華なランプになる。できることなら私も、そんなランプを持ってみたいものだ。
蛍が飲む水は甘い。人間の飲む水は塩っ辛い。甘い水は自然のままの水。降る雨が山を伝って走り、谷に流れ込み、川になり、田に行き、地下水となり、再び天にのぼる水。その自然の水を汚すのが私たち人間。それを飲むために、塩素化合物を入れて汚れた水を消毒する。だから塩辛い水になる。水は、蛍にとっても人間にとっても、からだといのちにとっての基本。その水を汚し、からだを悪くし、いのちを縮めている人間はとても愚かだ。
蛍よ、こっちにおいで。こっちの水は甘いよ。言わずして蛍にはわかるのだ、苦い水はどの水か。塩素の入った苦い水では蛍は生きられないから、清い水を求めて自らゆく。だから蛍のいる水辺は清浄な証拠。蛍の舞う水田は、苦い農薬の撒かれていない田。日本中の水を甘くして、日本中に蛍を飛ばしたい。
蛍よ、キララキラキラと光り疲れたら、そっとお休みなさい、あなたを待つ花、ホタルブクロの寝床の中で。
鶴田静著『緑の暮らしに癒されて』(大和書房)より