言の葉摘み
ーー本の拾い読みから
アレックス・カー著『美しき日本の残像』(朝日文庫)を再読して、どきっとした個所の一つ。原文(訳文でない)のママ
東南アジアの庭は (中略)シュロの木、滝のように根を下ろしているバニヤンの木、枝から吊り下がっている蘭の花など、風と太陽と大地の引力に任された豊富な自然です。その庭の中を歩くと心は軽くなって実に嬉しくなります。そんな時に日本の庭を思い出すと息苦しい気持ちになります。禅寺のまっすぐに引いた砂の線、完壁に丸く刈り込んだつつじ、一枝一枝が巧みに操り曲げられている松の木、茶室のこけ苔の上にちゃんと計算して落とされた落ち葉。木の葉一枚でも自然に任せられないという精神は恐ろしい。そう思うと、自然を大切にしない日本の現代の風潮は今に始まったものではないのかも知れません。自然界を完全にコントロールしようという支配的精神は室町時代からすでにあったようです。庭から緑を追い出して、砂と石と壁によって完全な芸術品を創り上げました。当時はそうした世界を創るのは、技術的に一つの小さな庭の面積に限られたのですが、今は技術的な限界はありません。自然林を伐採し、そのかわりに植林した杉は整列して「気をつけ」の姿勢をとらされ、海岸や川をコンクリートで固めたり、京都や奈良の町並みを潰してコンクリート・ボックスにして、やっと今になって日本全国を枯山水に仕上げることができるようになりました。
タブーは天が定めるもの
中世から枯山水の支配精神が始まったのですが、それ以前の日本の庭は東南アジアのように自然なものだったと思います。万葉集の時代には人間は自然と一緒に生きていたような感じで、待別に「庭」というものはなかったでしょう。(後略)
本書は、第七回新潮学芸賞受賞。アメリカ人の著者の日本と中国に関する博識には、目を見張らされる。私たちには耳の痛い文化批判。日本再生のためにも一読したい。
生命の大河 高村光太郎 (1950年以降 作)
生命の大河ながれてやまず、
一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
がうがうと遠い時間の果つる処へいそぐ。
時間の果つるところ即ちねはん。
ねはんは無窮の奥にあり、
またここに在り、
生命の大河この世に二なく美しく、
一切の「物」ことごとく光る。
人類の文化いまだ幼く
源始の事態をいくらも出ない。
人は人に勝たうとし、
すぐれようとし、
すぐれるために日己否定も辞せず、
自己保存の本能のつつましさは
この亡霊に魅入られてすさまじく
億千万の知能とたたかひ、
原子にいどんで
人類破滅の寸前にまで到清した。
科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。
さういふ世紀のさきぶれが
この正月にちらりと見える。
それを見ながらとそをのむのは
落語のやうにおもしろい。
芸術倫理の如きは
うづまく生命の大河に一度は没して
さういふ世紀の要素となるのが
解脱ねはんの大本道だ。
(注・傍線は原文では傍点)
**戦前、天皇賛美をしていた彼は、戦後、贖罪としての詩を書いたという。宮沢賢治の家の近くで、畑を耕しながら。その家を訪ねたことがある。とても質素だが、彼の精神が充ち満ちていた。別の詩では、亡き妻智恵子に、戦後の変わり果てた日本を報告している。昭和8年−1933年に亡くなった賢治が戦後まで生きていたとしたら......とも考える。
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