静かなるエッセイ 私の宝石 その価値は

静かなるエッセイ 私の宝石 その価値は

 私の小さい時からありすぎた趣味の中でも、今でも好きなのはアンティークを見ること。もちろん、買えればそれに越したことはないが。
 絶頂期だったのは、ロンドンに住んでいた頃だ。私は、ほとんど毎日、どこかのアンティーク市場をうろついていた。近所に住んでいたポートベロー、ケンジントン・マーケット、
カムデン・タウン・マーケット、エンジェル・アンティーク・マーケット、チェルシー・アンティーク・フェア、キングス・ロード・エッセンス、など。それにクリスティーやサザビーなどの競りにも行って見ていたこともある。
 と言うのには、日本の友人から買い付けを頼まれたことも一因している。ある人はアンティーク・ドール。ある人は、アクセサリー。私は専門書を買って勉強もした。それは、今に遺された品物から歴史を勉強することで、とてもおもしろかった。その頃ロンドンで知り合った日本人の業者の何人かは、今や日本で著名なお店を持っている(現在は不明)。
 友人の買い物は結構高価な品だったが、私自身の買い物は安物ばかり。アクセサリーやバッグや布などである。今はそれらを身に着けるのは、よほどの儀式的会合の場合だけだが、私にとっては二度と無い、時と場所の遺品として貴重な宝石なのだ。 
 金や燻銀の台に七色のガラス球が施されたブローチは、アールヌーボー風。実際に服につけるのはシンプルな服しかない時、あとは手のひらに載せて見るだけ。親しい方に戴いたアメジストの短いネックレスは、遠く離れたその方と、共にありたいときに付けてみる。
 ハンドバッグは、ベルべットの地に金銀の糸で刺繍をしてあるもの。レース地にガラス球が織り込まれたのや、30年代のアールデコ風のや、そんなバッグもまた、観賞用だけにはしない。あるパーティーでは、着物を着て持った。  
 もっとも、ロンドンに住んでいた頃は、そんな物でもちゃんと身に着けていられたのだから、環境というものは人を、独創的にも没個性的にもしてしまうのだ。引き出しの中から、時々取り出して眺めていると、自由を謳歌していられた時代と場所が蘇ってきて、胸がじんとなる。アンティークの役目だろう。 
 でも今、ロンドンとは違う環境の中にいて、この環境にふさわしい宝石を探している。今私が住む日本の、昔からの農村で求める宝石。遺跡発掘? いやいやそんな大それたものではない。野や森の中で見つける、大地という歴史が持つアンティークである。
 紫水晶はムラサキシキブの実。長い一本の枝にたわむように群れついている姿は、三連か四連のネックレスになりそうである。ルビーはガマズミの実。燃えるような透明な石が、丸く集まってついているブローチ。珊瑚はマユミの実。珊瑚色の真ん中に真っ赤な点があるので、ボタンにすればお洒落。瑠璃はサワフタギの実。四つか五つ繋がっているのを二本で、イヤリングになる。
 こうして自然の中を探せば、イマジネーションの宝石は無尽蔵。ただしこの宝石は、秋にならないと着けられないのだ。そして毎年新しくなるから新品である。
 アンティークの宝石と言わずとも、誰もが心の中に、思い出をしまってある。その思い出を、アンティークとして遺せるかどうかは、価値観による。私は、光るものもくすんでいるものも、美しい宝石として大切にしている。
 そして最も大切な一番のアンティークの宝石は、家族はもちろん、私の人生で出合った多数の友人知人お世話になった人々、会ったことがなくても、私に人生上の教えを与えて下さった未知の人々や書籍や音楽である。