ソローヒルから


All Photos copyright Edward Levinson!!

木と火と電気と水

今年は暖冬らしい。昨年は10月のうちに薪ストーブを焚いたのだけ れど、今年は11月に入ってもまだ焚かなかった。が、12月に入り、ついにほとんど毎日たいている。エドは、薪を集めるのに大忙しだったのだが、ある日、 1年分の薪が突然
集まってしまった。その事情は実は深い物があった。
近所の山道がとても広く工事されている。何かと思ったら、山を切り開いて風車を建て、電気を得るとのこと。会社が大がかりにやるのである。ある日、薪をも らえることになり、ダンプカーで現場へ行った。なんと、
片側の山肌の木が全部削られている。その光景は唖然 とする物だった。今切り取られたばかりの大木が山となって道に積まれている。そのうちにそこで燃やすというのだ。
ダンプを5回往復させて庭に山積みにした。これから1年を懸けて乾燥させる。ありがたい、うれしい、と喜ぶ一方で、山から木が、命の元である木がなくな り、その代わりに電気を得ることに、これでいいのか、と思う。
いわく、自然エネルギーなのだが。

以前、私の家にも風車があった。小さくて、100わっと分しか得られなかったが、
木を切って立てる必要はなかった。それはモンゴルで使われている持ち運びができる小さいかわいらしい、モンゴルでパオに暮らす人々を彷彿とさせる物だっ た。
台風でプロペラが壊れてしまい、今は風力は使わず、太陽電池だけからの自然エネルギーを使っている。雨が多いので、井戸水や雨水もたっぷりとある。

だが、薪をストーブにくべるたびに、巡り巡る矛盾に心が痛む。


たぬちゃん

   前々から家の南の森に住んでいる狸がちょくちょく出てくるようになった。

  いよいよ冬ごもりの準備でしょう。このたぬちゃん、前足の片方がないので、

  びっこをひきひき、のろのろと降りてくる。犬科の狸なので、 雑食で、

  肉食が好きだろうなあ、と思うが、わが家の生ゴミの山には動物性食品は一つも

  ない。下のミカン畑で実を探していたので、りんごやみかんやパンなどを投げて

  やった。ところが石でも投げられたと思ったのか、逃げた。3本の脚で、とても

  速く走るのに驚いた。生き物の能力はとてつもなく可能性が高いことに、その

  能力を全開していない私には感動的だった。

  身体の障害を超えて、すばらしい生き方をしている人々は大勢いる。その行動

  から、大きな勇気を与えてくれている。

                   階段ができた

  ソローヒルガーデンの庭巡り は、ちょうど棚田のあぜ道を行くように作られている。

  けれどもこれまで、全部の段に階段が出来ていず、上がり下がりが不便な部分が

  あった。最近、エドは執筆をしているので、頭に疲れると外で体を使う。その成果    が、二段の階段の設置である。これまでは石段ばかりだったのだ が、木を使って

  作った。粘土を掘るのは大変な仕事だけれど、雨のあとを選んで掘ると、より掘り

  やすい。足下は粘土でべたべたで滑りやすいが。こうしてかわいらしい階段が出来    て、庭巡りがしやすくなった。まだ木は低いが、紅葉は立派に色づ いている。

  うれしくて、雨上がりの朝一番に階段を下りたが、着地してべたついている粘土に

  滑り、脚の指を捻挫してしまった。お客様でなくて良かった。

  寂しくなった冬の庭でも、働いていると、春への希望があふれてくる。

 


1 月の野の花

「祝福するツワブキ」 

           

 新 しい年を迎えるとどの家庭でも、玄関や床の間や客室にナンテンの赤い実や松の枝が飾られる。しかし野ではツワブキが新年を祝っている、黄色い花と葉を輝か せて。花が寂しい冬の戸外で、こうして華やかな花をみられるのは、一つの祝福ではないだろうか。

 ツ ワブキはとても強く見える。葉は厚く臘を引いたように堅い。毛深い茎は太くてがっしりしていて、十本以上に枝分かれしている茎に、大きな花が一つずつつい ている。そこで私はツワブキを、繁栄する一家に見立てるのだが、それはちょうど家族の集まる季節だからだ。ツワブキは新年の花にぴったりだと思うのであ る。

 ツ ワブキが咲くのは海岸などの温暖な地域で、石や岩が多いところ。それで「石蕗」と書く。葉は蕗に似て丸く、しかもつやつやと光沢があるので「艶葉蕗」、ツ ヤブキとも呼ばれる。それがツワブキになった。海岸でなくても、家の庭の石組みや石塀の下によく植えられる花だから、誰でも小さい時からなじんできた花で あるだろう。しかし都会化した場所ではもう、珍しくなった花かもしれない。

 私 自身もツワブキの花をめったに見かけなくなり、忘れかけていた。けれども我が家の近くの海にある小さな島を訪れたら、そこにツワブキの花が群生しているの に驚いた。島を縁取る岩一帯に黄色い花が咲き乱れ、甘い香りがむせかえるように漂っている。荒波にもまれても負けないほどの、なんという剛健さであろう。

 普通の蕗と同じように、春先の葉の茎を煮て食べたのは昔の貧しい時代。祖父母の時代 の、食べ物を山野に見つける知恵の一つだったのだろう。そんなことから、在りし日の家族を思い出す。今、新年のお祝いの食卓には、色とりどりの美しく美味 なお料理が満載している。それを囲む和やかな家族に、個々の家庭のみならず、この日本の平和をしみじみと感じるのは私一人ではないだろう。 新年に当た り、今年の世の中はどんな風になるのだろう? と期待と不安のうちに考える。青空の下で海の風にそよぎながら、花弁を力一杯広げたツワブキの花が、明るく 笑っている。そして甘い香りを放ち、私を励ましてくれる。漠然としているけれど、大きな希望が湧いてきた。やはりツワブキは祝福の花なのだ、ともう一度 思った

12月の野の花



「宝 石はフユイチゴ」

 冬の野には花らしい花は何も無い。かといって、自然はそれほど非情ではない。無いながらも、季節の喜びをもたらしてくれる。十二月から一月の季節の色は 赤と緑。それは、クリスマスとお正月の赤と緑である。この鮮やかな配色は祝福の色だ。自然もまた、常緑樹や針葉樹の葉の緑と赤い実とで祝っている。たとえ ばアオキやヒイラギや、センリョウやマンリョウの濃い緑の葉と、その陰からのぞいている赤い実は、冬の冷気の中でなんと力強く見えるのだろう。 庭の中の 緑と赤の木を眺め回した後、野道を歩く。赤と茶色に変身した草々の紅葉が、低い陽射しの中で輝いている。落ち葉を踏み締めようとしたその時、足元で、キラ リ、と光る物が見えた。落とした宝石を拾うように身をかがめると、いくつかがかたまって、ピカピカと光っているではないか。それは真っ赤な小粒の、透き 通ったルビーのような実であった。冬 苺のその名の通り、甘い苺の味である。そう言えば初夏に、白い薔薇に似た小さな花が咲いていたっけ。蕗の葉のような 形のその葉は、この小さな宝石を優しく包み込むかのように丸い。 私はあちこちに実がつく蔓状の茎をそっと取り、胸に飾った。冬苺のルビーのネックレス は、「人知れずとも、身も心も常に美しくしていなさい」と私に説いている。落ち葉の下に埋もれていようと、いつかはきっと光を発するようになり、誰かに気 づかれることもあるだろうから、と。そうか、それが努力ということであり、希望なのだ、と私は納得した。まだ見つからない宝石は、どこにでもたくさんある のだ。

このページは、新しく作った
「ソローヒル・ガーデン」のホームページ
http://solohillgarden.com/
にも掲載しています。