こ の月あの時


Photos © Edward Levinson
 い つか海のない国から来た子供たちを近くの海へ連れて行ったら、一瞬、声も出さずに呆然と海を見つめていたのだけれど、すぐに嬌声を発すると波に向かって駆 け出し、そのまま海水に濡れていたきっと水が冷たいことなど思いもよらなかったのだろう。 初めて雪を見る気持ちは一体どんなかしら。京に住んでいた幼少 の頃の雪の思い出はたくさんあるけれど、どんな風に思ったかは覚えていない。きっと、ただその白い美しさに見とれていたのか。それとも、やわらかいやわら かい真綿の寝具のような雪の中を、無邪気にも、子犬のように赤ん坊のように転げ回ったかも知れない。雪が冷たいことなど思いもよらずに。 
 今は都会に雪が降ることが希になってしまっ た。温暖化という現象なのか。ほんの少し昔、公害がこんなに増加しなかった頃には大雪が降って、通勤に困ったり遊ぶのに喜んだりしたものだ。私の家の近く にある玉川上水の雑木林は冬には裸木がとても美しい。その木々が雪に包まれたときの光景は、こうして今思い返して想像するだけでも、目に涙がたまってくる ほどの夢幻の世界を蘇らせる。
 雪は人を詩人にし、画家にし、音楽家にする。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」と三好達治は書き、このたった二行で雪をうたった名作をなした。
アメリカのモウゼスおばあさんは昔の雪の中の生活を素朴な絵に描き、歌手たちは「雪が降ってきた……、雪の降る町を……」と季節の歌を歌う


Photos © Edward Levinson

。 私が今住んでいる気候の温暖なこの地方で は、毎年の雪も期待できない。冬に雪が降らないなんてとても寂しい。雪があれば、〃別世界〃の中ですばらしい体験ができるのに。山を一歩一歩踏み締めて歩 くのでなく、スキーに乗って鳥のように舞い降りるなんてこと、雪がなかったらできないでしょう。若い頃、私はよくスキーをやった。あのふんわりと飛ぶよう な快感は、いちどやると忘れられない。だから、冬季オリンピックを見るのは大好きだ。 もう四十年も前の記録映画は「白い恋人たち」と題されていた。真っ 白な雪の上、氷の上を若い力を漲らせて跳躍し輪舞する若者の姿は、まったく白い天使か妖精か。それを〃恋人〃としたところに、フランス映画の粋とエスプリ が感じられた。 
 二十二年前の会場だったサラエボの町は、競技 場ではなく戦場となり、真っ赤な炎と血で塗り込められた。〃白い恋人たち〃の姿は消え、恐怖感と虚無感だけが残されて。恋人たちが逃げ惑い、橋を渡ろうと して撃たれてしまったなどというニュースには、怒り以外の何を感じたらいいのか分からなかった。 戦争の犠牲になるのはいつも、子供、若者、女性、高齢 者。何のために人が人の命を奪い、何が人に人の命を奪わせているのか。と、私たち個人はいつもそんな疑問をもっているのに、誰も答えず誰にも答えられな い。平和なサラエボの町で再び、白い恋人や妖精や天使たちが笑顔で舞い踊ることができるのはまたあるだろうか。 
 降った、降ったのです! 二年振りに雪が。そ して積もりました、十五センチも。向こうの谷間の底へ底へと落ちる雪を見つめていたら、ある種の幻覚症状に陥ってしった。からだが軽くなり、私も雪のひと ひらになって空で舞っているのだ。雪の上に着地するとすぐに他の雪と溶け合い、私という〃個〃は消えてた。没我とでもいうのか、空とでもいいうのか。自分 という鎖からほぐれて、〃カタルシス(浄化作用)〃の体験の様に身も心も軽やかになった。 
子供たちは雪だるまを作り、雪のつぶてを投げ合 い、犬と一緒に駆け回り、そこには伝統的な雪の遊びが健在である。砲撃の音が止んだサラエボにも、今頃雪が積もっているかしら。雪がすべての悲しみと憎悪 を包みこんで、白い恋人たちの静かなひとときがあり、これ以上の戦いのないことを祈りましょう。