愛犬と夫婦の家族愛―「犬がくれた幸福」

7章 おもてなしの方法

モデルはわたし


 全部の器が料理を盛る前と同じにまっさらの空になると、客の二人はそろって緑の芝生へび出した。おもてなしを無事に終えてやれやれと、鼻歌交じりに一人台所で洗い物を始めた晴れやかな顔の私を見て取ると、ラッキーはお世辞に尻尾をひと振りし、彼らのいる方向へくるりと向きを変えた。
 水恵と実野は、小さな使い捨てカメラでお互いを写しっこしている。バックはもちろん、威風堂々と甍をそびえさせた日本家屋のわが家の全景である。ラッキーは自分も一緒に写真に写りたいと、いや、もしかしたら何か口に入るものをくれるかもしれないと思い、二人の回りをうろうろして存在を主張している。せめて頭くらい撫でてくれるかなと思ったのだろう。
 と実野がはたとラッキーを見た。彼女は浅ましい心の中を見透かされたようで罰が悪くなり、目が合わないように顔を横に向けた。だが思い直して実野の目をじっと見つめる。「水恵〜ぇ。この犬と一緒に私を写してよ」
「ヘン、ヤッパリネ、可愛イ私ト記念撮影シタイノネ」
 ラッキーはしたり顔。ところが次の一言で彼女はブッキレた。
「この犬、野良犬みたいでしょ。いいねえ」
「うんうん、実野のその農婦の姿とバッチリ決まるよ。いかにも野良にいる野良犬って感じでさ」
「野良野良ト言ウナ。私ニハラッキーッテイウ、私ガ福ニ恵マレルヨウニト両親ガツケテクレタ名前ガチャントアルノダ」
 彼女はカアッとなって牙をむこうとしたが、写真は一生残るからと、ぐっと怒りを呑み込んで作り笑いをした。唇をぐっと上げて前歯を見せて、ちょっとわざとらしい笑い顔だ。「野良犬みたいなのにけっこう可愛いじゃん。おとなしくて素直でさ」
 やっと彼女たちはラッキーを可愛いと認めたのである。
「でもデブだねえ」
 おっと余計な一言。まあ確かにラッキーの顔は飛び切り可愛くないことは認めよう。でも顔つきは穏やかで優しいと評判なのだ。なぜなら彼女には鎖に繋がれるストレスがないからだ。両親の愛情を一身に受けているからだ。それにまあ、ホルモンのアンバランスと日頃の多食で肉がつき過ぎていることは認めよう。
〃多食〃とは、一日に何回も食事をすること。わが家で朝のおめざと夜の一食をもらう。梅オバさんちで昼食とおやつをもらう。近くの畑や山に仕事で人が来ると彼らから離れず、お弁当やお茶の時にじっとそばで待ち、一口か二口をもらう。それから退屈な時には山や野原を散歩して、食べられそうな虫や小鳥を探す。こうしてラッキーは、獣医から、もっと体重を落としなさい、と注意されてばかりいるのだ。
 その上そのたるんだおなか。使われることもなく萎んでいる十個の乳房が、余計にたるみに弾みをつけている。前脚をつんと立てて座ると、二本の脚の間から、たるんだ腹がベルベット地の厚いカーテンのひだのようになって流れ落ちる。これは、ラッキーに子どもを産ませないようにと手術を施したことと、春先になって男共が彼女を襲撃しないようにするために、獣医が処方したホルモン剤の成せることだと思う。彼女のからだを反自然の状態にした両親の考え方に、きっとラッキーは異議を唱えたいにちがいない。
 こんな風袋のラッキーだから、まあ、たまたまいるからであって、わざわざ写真のモデルにされることはあまりないのだ。
 肉体的コンプレックスは私にもある。弱点は鼻の形。低くて短くて小鼻が横にだだーっと広がっているのだ。つまり南方系の鼻の形をしているので、欧米ではタイ人かベトナム人に思われ、決して日本人に見られない。その点ラッキーの鼻はすっきりと尖って長い。アメリカ人のオトウサンの鼻と同じだ。一家してお出かけのときは、ワゴン車の運転席に夫、助手席に私、その真ん中のエンジンの上にラッキーが座り、三人の顔が並ぶ。すると、夫とラッキーは細面の顔立ちに鼻筋がすっと通った二つの相似形の顔をしているから、その上二人とも茶髪だから、明らかに親子と分かる。丸顔の私にはぺちゃんこの鼻がついていて、自慢の長い髪は真っ黒なので、〃夫婦は他人〃の見本のようだ。
 ラッキーは閉所恐怖症と車酔いとが一緒になって車に乗るのは大嫌いなのだけれど、私たちが外出の時一人で留守番するのが嫌なので、おいてけぼりをくわないように車に飛び乗り、気分が悪くなることもものともせずに同乗するのである。車酔いには、前方の席の方が揺れが少なくてよいことは、犬にさえ分かるのだ。それでいつも、後ろの席でなく、前のエンジン席に座るのだ。それにもかかわらず、ラッキーは紫色になった舌をだらりとさせて、はあはあはあはあ、マラソン走者のような荒い息を吐き続けている。
「心臓に悪いわねえ。この次からは必ず留守番させなきゃ」
 ラッキーは、死ぬほどの目に遭っても留守番は嫌で、どうしても一緒に来たがる。「この次」は永遠に来そうにない。
 水恵と実野は、ラッキーにフォーカスすることもなく、単なる背景か小道具としてとして使ったらしい。それでも、彼女の存在が画像となって残るのだから彼女は嬉しいだろう。焦点といえば、ラッキーは夫の専属モデルなのだ。そういえば犬族で有名なモデルがいる。エドワード・ベントンの写真のモデル。でも可愛そうなのは、彼はただ写されるだけじゃないのだ。人間の扮装をさせられて、いろいろな人物に化ける。乳母車を押す婆やだとか、椅子に座って新聞を読む紳士だとか、華やかなドレスを着た令嬢だとか、演技もさせられる。写真を見ると確かに、顔や手足は犬で服装としぐさが人間で、半犬半人の不思議なかつユーモラスな雰囲気がある。それで人気になっているのだ。でもラッキーがそんなことされたらいい気分はしないのではないか。まあ、人によって、犬によって好き好きだけど。 悲しいかな、夫にはすばらしいモデルになる家族はいない。せいぜいラッキーとハッピーくらいか。ハッピーがいなくなってからはもっぱらラッキー。だから彼女は心得たもの、夫がカメラを彼女に向けている時にはじっと動かないでいる。そのくらいしか私にはオトウサンの優しさに報いることができないもの、とラッキーが思ったかどうか。
 夫が愛用しているカメラはピンホールといい、四角い木の箱や丸い鉄の缶に小さい針孔が開いているだけで、レンズもファインダーもついていない。針孔から入る光が孔の前にある対象を箱の中に吸い込むのだ。光を入れる時間は、数秒から数十分にも及ぶ。ピンホール写真の撮影にかかるそういう長い時間でも、ラッキーは瞑想しているようにじっと静止していることができる。目線はカメラのこともあるけれど、そうするとわざとらしいと思うのか、体の向いている方向に上目で遠くを見つめる。「ラッキー、ラッキーちゃん、こっち向いて」と呼びかけられても、ラッキーは自分が一番きれいに写るだろう位置とポーズを崩さない。それは私の真似である。私は絶対に正面からは撮らせないのだ、丸い鼻を気にして。
 ラッキーのモデルの才能―長時間のからだの静止―を認めた私は、彼女のスタイリストとして活躍する。まず彼女をお風呂に入れる。彼女はお風呂が大っ嫌い。甘ったるい匂いのするシャンプーをからだ中に塗られ、シャワーからそんなに熱くはないけれどお湯が出てからだをくすぐるのだから。何よりも水が怖いのだ。だが、けっこういい気持ちであるらしいことも確か。それでもやっぱり、
「ラッキー、お風呂に入りましょうね」
 と私が呼びかけるだけで、彼女は緊張からぶるぶる震え出してしまう。出来ることなら入りたくないから車の下や梅オバさんちへ逃げ出したくなり、何回も逃げ出したことがある。以来、私は上手に嘘をついて彼女をだまそうとするけれど、彼女は私の気配ですぐに察してしまうのだ。それでこの頃は、夫に抱かれて風呂場まで強制的に連れていかれてしまう。
 ラッキーが「お風呂」という言葉を知っていて、それを聞くと恐怖感から震え出すことを知った私たちは、時々わざとふざけて、「ラッキー、お風呂、お風呂」と言って彼女を脅かして喜ぶ。なんて残酷なのだ。これは、言葉という暴力を使ったれっきとした虐待ではないか、と反省。
 ラッキーの嫌いな言葉は他にもある。「薬」、「お医者さん」、「駄目」、「留守番」、「バイバイ」など。好きな言葉は、「ごはん」、「かわいい」、「散歩」、「お休み」、「ラッキー」。でも、言葉よりも私たちの腕の中にいたり、顔や耳やからだをさすられたりするのが一番気持ちよさそうであるのは、人間のあかんぼうや幼児に共通するのはいうまでもない。
 人間は、動物は人間の言葉を解さない、と思いがちだがとんでもない。少なくともラッキーは私たちの娘になって以来、オトウサンとオカアサンが彼女に向かって使う言葉はすべて理解することができる。そして私たちもまた、彼女の出す吠え声や鼻声から、その思いを理解することができるのである。
 入浴して汚れが取れ、蜂蜜をべっとりと塗ったようにつやつやのからだになると、今度はラッキーの身を飾る。野の花を摘んで首飾りを作りそれを彼女の首に巻く。皮の首輪を外してバンダナのスカーフをする。座っている彼女の横に、大きな熊の縫いぐるみを置く。ソファーやベンチやクッションの上に座らせたり……。ラッキーを私の好みに飾るのはけっこうおもしろく楽しいことであり、世の母親、特に女の子を持つ母親は、こうして着せ換え人形のようなことを毎日、遊びのように楽しんでいるのだな、とその心が分かる。自分の身を飾る楽しみとはまた別の、喜びなのである。