こ の月あの時

2009年夏


美しく暮らしたい

  籠と花 鋏をもった私は、先を行く愛犬の尻尾の後に着いて山道に入る。野の草花を集めるのが目的だから、両目をかっと見開いて通り過ぎる脇の土手をじっと観察す る。草や木の陰でひっそりと咲く小さな一輪の花も見逃すまいとして。いいえ、そういう花は手折るのではない。その存在と草花の名前を知るために、しっかり と見ておきたいだけなのだ。
 私が鋏で切りとる草花は群生しているものの一部。もちろん根を残し、なるべく花の枯 れていないものをとる。なぜなら、花が枯れると中にある種が地上に落ちて、次の季節に再び花となるからそこに残しておくのだ。たくさん集めるには、同じ所 からでなく別々の場所に咲いている中の一部を取るようにしている。
 薄ピ ンクののベルのような可憐な蛍袋、穂の様に並んだ小さな花をつける山ハッカ。それに合わせるには、緑色のエノコロや  

白いクローバー がいい。どれもいわゆる雑草のように、土手や野原にはびこっている。
 アザ ミやノコギリソウ、ムラサキカタバミやカゼクサ、夏から初秋にかけて、青く光る空や透き通って流れる風のよきパートナーのように、自由でのびやかな草花が 盛るのだ。
 こんな自然の贈物を籠一杯にあふれるほど抱え、私と愛犬はいそいそと家路を辿るが、 これから私の次に好きな趣味が始まる。それは集めてきた花を室内のテーブルやチェストの上や、床のの隅や端な ど、家中にくまなく飾ること。終われば出現するだろう室内の新しい表情を思うと、私の胸は恋人に逢うときのように高鳴る。
 花器はいわゆる花瓶だけではない。空き瓶や水差し、口が欠けたグラスやコップ、お茶 の缶、木の桶や味噌瓶、炭入れに金魚鉢、およそ水が入ればどんな容器にも花を挿すことができる。むしろ、花とおもしろい入れ物を組み合わせて作られる不思 議で奇抜でお洒落なアレンジは、室内をより特別な雰囲気にしてくれる。 こんな雑器の花瓶に釣り合うように、私の家具はほとんどが木製で、使われた木はな かなか立派なものだが、古めかしく、傷がつき、年代物が多い。といっても高価なものでなく、古道具屋や粗大ごみ置き場や、友人のお古やリサイクル品であ る。それらを修理してていねいに磨き、カンナをかけ、ラッカーを塗り、新しい命を注いでやる。
 テーブルには、亡母の刺繍の入った帯を端から端に流してテーブルセンターに。着物を ほどいて暖簾に。レースのテーブルクロスは小さな窓のカーテンに。という風に、ふだん使っていないものを引っ張り出し、どこそこに活用して新しい生き場所 を探してやるのが私は好きである。モノにだって命はあるのだから。
 私と夫は一日中家で仕事をしているので、常に気持ちよく過ごせるような場造りに努力 している。朝は朝、昼は昼、夜は夜の快適な空間を作り出すこと。夜には照明が活躍してくれる。部屋が広いのでランプをあちこちに置く。その笠も、刷りガラ スや布製、竹製、和紙製といろいろな材質のをその部屋の雰囲気に合わせて使う。買ったのもあるが、手製ありもらい物ありリサイクルあり。
 室内を整えているとき、私はいつも中学生の頃の友との会話を思い出す。「大人になっ て家庭をもったらどんな風に暮らしたい?」「部屋に花をたくさん飾るわ。それからもし服に穴が開いたら、そこをアップリケでふさいだりして、決して捨てた りしないの。」友か私かどちらの答えかは定かでない。けれども彼女も今、家の内外を花で埋め尽くし、布切れで人形を作っている。少々ひねていたが、二人は 共に、〃三つ子の魂〃なのかしら、と苦笑する。
 我が家はたんぼと森に囲まれて丘の上にポツンと立つ木造家屋だ。そこに、風や太陽や 雨がふんだんに入り込む。季節が移ると光が変わり、その季節の色彩を外から内に運んでくれる。すると部屋は天然の照明で美しく輝くのだ。
 この天然の美しさを損なわないように、なおかつそこで生活を営む人間の自由さを保て るように部屋を整える工夫をするとーー整理整頓をして空間をとるとーー使いやすくなおかつ美しさが生まれるだろう。
 田舎だから出来るのではない、どんな場所でも、その環境のよいところを見出してそれ を広げる。逆に悪いところは躊躇せずに直す。ことにごみの放置やポイ捨ては、公共であっても私的な場所であっても慎みたいものだ。環境悪くして自分の場所 だけが美しくても仕方がないもの。 私たち人間が自然の生き物であるなら、棲む場所も自然の要素の多いところが最適なのだ。だから家の中にも、それがコン クリートの中であればあるほど、自然の要素を取り入れる工夫が必要ではないだろうか。私たちは、人が〃住む〃と書いて人を家の主にしているが、ほんとうは 〃棲む〃のが正しいのではないだろうか、そう、木を妻すなわち伴侶として。木を自然のシンボルとして。 
 今人々は、都会でも田舎でも憑かれたように花を栽培し、植物を植えている。それは人々の心身が疲れているからだ。植物は常に成長していて、成長すること は活力のある証拠。植物にあるその生命力は人間の心身によい影響を与えるから、疲れた現代人は自ずと花を求め、木を恋しがる。それは自然である人間にとっ て自然なことなのだ。

 私も花を栽培している。毎年その季節になるとおなじみの花が開いて再会を喜び、ある いはどこかに移動して消えてしまったり、その年によって様々な遭遇がある。その上自然は、この大地に自ずと種を蒔き、四季折々の花々をちりばめてくれる。 私は自然が咲かせてくれた花をことのほか愛でている。それは人間には決して創り出せないものだから。栽培、野生どちらにしても、深い緑の中に咲く、様々な 色合いの花はどんなにかこの宇宙を美しく彩ってくれることだろう。
 それを真似て、私も自分の居場所を自然の様に美しく飾るのである。自然の真似さえす ればなんでも美的になることが分かったから。自然のセンスや技巧は、はるかに人間の能力を越えている。自然を人工的に改造するなんて愚かなことだ。けれど も、植物も人間もより快適に生きられるよう、人間の世話も必要なのはいうまでもない。


2009 年春から初夏へ

© Edward Levinson




「二人六脚」

「エドさあん、ご飯よう!」リビングの向かいの夫の仕事場に向かって私は大声を張り上 げる。「はあいっ。今行きます!」と明るくうれしそうな〃よいご返事〃が、デッキの向こうから響き、風に乗ってキッチンに入ってくる。
 私はパソコンに向かい、彼は暗室に籠り、集中し た午前の仕事の後の昼食。陽射しはちょうど雲の影をデッキに落としているから、その中にチェアとテーブルを引き寄せて食卓にする。献立はたいてい一皿に盛 れる程度の簡単なものとサラダや汁物。ただし、菜園から摘んできた何種類もの野菜を洗い、刻み、調理するから時間はけっこうかかっている。
 なかなか私の呼び出しがかからないと、夫はイン ターホンでたずねてくる。「食事はどうかい?」すると私はいささかいらついて、「私はまだ終わらないの。手が空いたのなら何か作って」と応答する。すると 夫は「はいはい」と台所に立つ。私たちの分業には境界はあまりない。
 こんな二人三脚の生活を始めてからかれこれ二〇 年を越えた。しかし私たちのタイアップは、四本の足を三本にするためではない。一人の足を三本にするためなのだ。そうすると生活や仕事を安易にそして実り 多きものに出来るのである。
 実際、こんな人里離れた田舎での暮らしは一人で は出来やしない。いや、している人々もいるから、それは私のひ弱さと甘えかもしれない。けれどもエコロジーを目的に移住してくると、いろいろな問題が起き てくる。それを解決するには一人よりも二人、二人以上がやりやすいのは事実なのだ。どちらかに欠け、あるいは豊富な技術や知識、そして肉体的な力をもちよ れば、ずいぶんと大したことができるだろう。喜びや希望、恐れや不安を分かち合えば、精神状態はリラックスする。
 いささか私的な枠を越えたことをやらかす場合、 私たちはたいてい二人で立案してそれを実行する。状況判断をする場合、男の目、女の目、第三者の複眼で見ることができるだろう。生活の些細なことでも自分 以外がいるとよい。「電気がつけっぱなしになっていた」「ガスの火が大きすぎる」「これには○○が入っているから使わないでね」などと注意されたりしたり すると、エコロジカルな生活はより一層正しいものとなるのだ。
 自分自身では決めかねていること、家や庭を造る こと、太陽光発電機や風力発電機を使うこと、コンポストトイレの導入、そんなことからそれぞれの仕事の内容まで、常に対等に話し合ってやってきた。それら はすべていい結果になっている。
 夫と妻、主人と奥さんの立場を融合しそれを超 え、社会的な性差を超えてやっているつもりの私たちだが、子供がいないからできるのかもしれない。私たちは課せられた運命を受入れ、その状態の最良を保つよう努力していかなければなら ないと思う。今の家族や社会との関係を肯定できるように。地球と自分の関係を肯定できるように。『森の生活』のソローは、人間と自然との関係は美しくない と嘆いたが、最悪になってしまった今、美しくなるようにしたいものだ。と、田舎に住んでいるが、自然はなかなか厳しいもの。台風に土砂崩れ、冷害や干ばつ を起こして作物を凶作にする。そうして人間に反省を迫る。「マイ・バッグもった?」「今日は乗用車でなく、軽ダンプで行こう?」買い物に出る度にこう確認 し合って私たちの二〇年が過ぎた。だが世の中は……。世の中はともかく、私たち個人は気持ちよく暮らす努力を一生懸命しても、し過ぎることはない。それ は、ささやかな幸せをもたらしてくれるし、やるべきことはやるという精神的な爽快感を味わわせてくれる。
 華奢を排してなおかつ貧しくなく豊かに生きるこ と。これをモットーにして私と夫はあれこれ工夫してきた。それは何かを生み出すという創造の喜びに満ちている。創造するには多すぎるものがあっては駄目 だ、何もないところにこそ生まれる。




© Edward Levinson


子どもの頃には6年間も日曜学校へ通っていた。家 の敷地内に父が建てた集会場に、アメリカ人一家が宣教にやってきたのだ。自宅から歩いて10秒の近さだった。おとなになってからは苦しい時の神頼みしかし ない無信心な私なのに、クリスマスが来る十二月に入ると落ち着かなくなる。世界の各地にいる家族、友人、知人にカードやプレゼントの発送をするのだ。キリ スト教の聖典であるクリスマスを祝わない人には、「シーズンズ・グリーティングス」。形だけ真似て、室内にろうそくのデコレーションもする。外には樅の木 があるので、シンプルな豆電球もともす。それにしても最近の町中や住宅や、田舎の畑にさえ大がかりにともされるイルミネーションの派手さはいかがなものだ ろう。 
 そんな日々の雰囲気に乗じて、イブになると教会 のミサに参加する。聖歌を歌うのは楽しい。日本であれ外国であれ、そのときにいる町のどの教会でもいい。一歩教会の中に入ると野次馬精神が消え、厳粛な気 分になるのが非日常的で、だらりとした私には、ぴりっとしたよい薬となる。
 今までで比較的印象に残るのは、東京・六本木の 聖フランチェスコ会のミサ。気紛れの私には珍しく、何年か続けて参加した。もっともこの教会の参拝者はほとんどが外国人なので、聖歌はたいてい英語で歌わ れる。そこでの特徴は、キリストの生誕の場面が人形で展示されていること。楽しく微笑ましく、厳粛さよりもいかにもバースデーのお祝いに立ち会っていると いう感じがいい。
 その装置は、派の創始者フランチェスコの案だと いう。詩や音楽が好きだった、彼らしい〃演出〃である。実は私は、以前からフランチェスコに興味を持っていた。それで彼の生きた町、イタリアのアシジを何 度か訪れた。というのは彼は、太陽や月や星から風や水や大地にいたるまで、この世の中のすべての存在を平等に見、兄弟、姉妹と呼んで慈しんだというからで ある。そして動物や鳥にもお説教をしたのだという。なんと無邪気な、ユーモラスな人なんだろう、と思ったのだ。そして彼を私の著書『ベジタリアンの文化 誌』や『ベジタリアンの世界』に登場させた。 
 考えてみれば、このような人こそ、この二十一世 紀の荒廃した地球に必要な人材なのではないかしら。でもそんな態度を他人に委ねずに、せめてその精神だけでも学ぼうと、伝記などを読んだのだった。彼は環 境保護の守護者として認定されている。
 クリスマスを見送ると、今度は近所のお寺からお 招きがある。除夜の鐘撞きである。しっかりと防寒具に身を固めて行ってみると、大きな焚き火が赤々と燃え、少しも寒くない。長い竹棒の先に刺したつきたて のお餅が、焚き火の火で香ばしく焼かれている。甘酒と一緒にふるまわれ、鐘撞きの列に並ぶ。闇の中に、久し振りで故郷に戻った人々の笑顔が溢れる。「おめ でとう!」と口々に。ここもまた、厳粛さというよりは、一年を再び同じ所で送り、迎えられたお祝いという喜びの場である。それは誰か特別な人のためでな く、生きとし生けるもののためである。 
 こうなると、初詣でにも行かざるを得ない。今年 はどこの神社に行こうかしら。まったく私は典型的な日本人だなあ。これといった信仰も持たないのに、儀式をその場その場で都合良く、軽くやってしまうなん て。
 けれども誓って言えるのは、自分のことはもとよ りだが、世の中の幸せと平和を強く願っているということ。いつも自分が恵まれたことに感謝し、他人にも分かち合おうと思っていること。願ったり、祈るだけ は簡単……。ならばよけいに思いを込めよう。