© Edward Levinson
るり色の空はあまりにも透明なので、見つめているとそれを突き破りたい衝動に駆られる。けれどもつき抜けてもつき抜けても、それは果てしなくガラスのよう
な空のままなのだろう。その張りつめた真空の中で、濃淡のコスモスの花が涼やかな秋風にゆらゆらと揺らいでいる。コスモス畑の中を蜂が忙しげに飛び交って
蜜を吸い、やがて赤とんぼの群れに追われていく。いくつもの命の営みが、青い空と緑の大地の間で繰り広げられている。
空とコスモスの群生、たったこれだけの風景の中にも、宇宙が大きく広がっている。宇宙ーーコスモス。今この瞬間の宇宙は太古からの連続。などと大それた
ことでなくてもいい。春先に種を蒔いたわけではないのに、そして去年はたった数本のコスモスしかなかったのに、雑草の中から無数のコスモスの苗が生えてき
たのは一体なんの仕業かしら、と考えるだけでも宇宙の力が感じられてくる。
ある春の母の誕生日に、亡くなった母の遺骨を花壇に蒔いたその場所には、コスモスの種がまだ眠っていたのだ。自分だけの場所に、ほんの少しの母の形見を
持っていたいと願ったのだが、きっと母も、私と一緒にいることを喜んでくれるだろう。無理にでもそう思いたいのは、母の晩年を共に暮らしてあげられなかっ
たことを詫び、それを許してもらいたいからなのでである。
コスモスがこの様に盛っているのは、もしかしたら母の遺骨のせいかとも思う。それは土に還って栄養となるからだ。花が大好きだった母だからこの様に見事
に咲かせたのかもしれない。私の子供の頃の家の花壇にも、母は今と同じくらいに立派なコスモスを作っていたのだった。そして母は今、コスモスの花となっ
た。母の墓は遠くにあって墓参はたまにしか出来ないけれど、こうして毎日コスモスの花を見、対話することで母と会っている。つくづく、母を墓の中にだけと
どめておかないでよかったと私は喜んでいる。
ずっと以前の秋、ある女性から便りが届いた。「私の別荘に、今コスモスが美しく咲いています。どうぞ見にいらしてください。」福井県のその日本家屋に伺
うことが出来たのは、コスモスが最盛期を越え、終わりの頃の花が鮮烈な有終の美を飾っている頃だった。華やかに燃え上がる紅葉の中で、コスモスはしっとり
と静かにたたずんでいた。ところが半年ほど経ってから、その方にとってのコスモスは、流産をしたお子さんであると知った。そのことはご当人の浜 美枝さん
がお出しになった『四季の贈物』(PHP)という本に書かれている。
流産。私も二回の流産を体験している。あの悲しみは、子どもが私のからだから引き剥がされていく痛みと共に、一生私から消えないものだ。今子どものいな
い私は、それでも優しい夫と支え合い、悲しみを乗り越えて生きている。浜さんは、素晴らしいお子様たちに恵まれたが、コスモスの花を育てることでそのお子
さんと対話をして、悲しみを喜びに変えていられる。きっと、あの美しい古い日本家屋に見事に調和する「秋桜」は今年も満開のことだろう。
来年も今年以上にたくさんの花を咲かせるようにと祈りつつ、私はコスモスにたっぷりと水やりをした。こうして季節は繰り返し、永遠に巡る。私は生も死
も、肯定的に考えることを学んだが、教えてくれたのはこの自然だ。宇宙だ。蒼空があり、コスモスが咲き、命を再生する大地がある。こんな豊かな自然の中で
毎日を暮らしていると、自分自身がとても小さく感じられる。人間が思い煩うことなどなんて些細なつまらないことでしょう。「さあ雑念を取り払ってすっきり
とシンプルに生きなさい。自分に囚われず他人を思いやって」とコスモスの花に託した母の言葉が聞こえてくる。