こ の月あの時
9月



「私の私淑する女性たち」
 誰にでも、密かに目標にしている人や、その言動に心ひかれ、模範にしている人がいる ように、私にも何人かの私淑している方々がいる。自分より年下から同輩、そして先輩、大先輩と、多彩である。〃私淑〃とは、直接の教えを受けていないこと だから、歴史的人物から創作上の人物まで、自分の好きな人、誰でも何人でもよいという、誠に勝手で都合の良い人生の学び方である。もっとも、そのご当人に とっては預かり知らぬことで、知られれば迷惑甚だしいことかもしれないのだが。
 私が私淑する人々は、以前は歴史上の人物が多かった。というのも、私がベジタリアン になったとき、その精神的よりどころを過去のベジタリアンの言動に求めたからである。ロマン派詩人のシェリー、ダ・ビンチ、作家のバーナード・ショウやル イザ・オルコット。私は、彼らの書物を読むだけでは飽き足らず、その家や作品や足跡を訪ね歩いたものだった。ずいぶんな〃グルーピー〃であったものだ。 
 その人々のお陰で、私は自分の人生の一つのスタイルに自信を持つことができたが、今 度は長い目で見た生き方そのもののお手本を求めるようになった。そして幸いなことに、身近かに(と言ってもその存在は私には遠いが)大先輩の何人かの私淑 する方々を得ている。大先輩たちの人生も長い。そしてかくしゃくとして仕事に励んでいられる。
 知人のご母堂は高名な日本画家である。何回か拝見した個展の絵には、インドの大地と 民衆のめくるめく賑やかさと永遠の静謐さが、優雅な筆致と色彩から醸し出されている。日本画とインドという、この新鮮な調和を生み出した画家の目と心、そ れは丹波地方の厳しい風土の中に生きて培われているという。いつかの個展でのビデオの中で色に工夫を重ねながら、「私が変わらなければだめですね」と言う 彼女は秋野不矩さん、当時八五才。 その人の仕事や生き様を実際に目にし、生の言葉を聞く、つまり同時代に生きてこそ、本当の意味での生きた手本となる。 私は、そのためのもう一人の女性と会うことができた。 
 ヘレン・ニヤリングはアメリカ・メイン州に住んでいた。バイオリニストだったが、学 者の夫と共に田園に移住し、野菜を栽培して自給自足の生活を営んできた。二人は家も手作りした。夫九〇代、ヘレン七〇代のときには二軒目の家を。それは二 階建て石造りの、シンプルだが非常に美しいものである。
 夫妻は五、六〇年に渡り、賢い田園生活のモデルとなってきた。それは数々の本で紹介 されているのだが、実際に取材のために自宅を訪れ、そしてご本人に会った。当時九〇才になるヘレンは、健康で若々しく驚くほど軽い身のこなしで客のための 食事を調え、機関銃のような速さで旧式のタイプライターを打つのだった。 
 八〇代、九〇代で健康を得、泰然と自身の道を歩む、それは年齢の結果ではなくプロセ スなのであろう。大事なのは、そこに至つてもとどまらず、さらに続けていく道程であるのだろう。これらのお手本を、私はどう生かせるだろうか。

7ー8月 「二人で」
「エド さん、ご飯よう!」向かいの夫の仕事場に向かって私は大声を張り上げる。「はあいっ。今行きます!」と明るくうれしそうな〃よいご返事〃が、谷間を越えて 向こうの丘に響き、風に乗って再び返ってくる。
 私はワープロに向かい、彼は暗室に籠り、集中した午前の仕事の後の昼食。陽射しはちょうど樹木の影を段丘状の庭に落としている。デッキに出てチェアと テーブルを引き寄せて食卓にする。献立はたいてい一皿に盛れる程度の簡単なものとサラダや汁物。ただし、菜園から摘んできた何種類もの野菜を洗い、刻み、 調理するから時間はけっこうかかっている。
 なかなか私の呼び出しがかからないと、夫はインターホンでたずねてくる。「食事はどうかい?」すると私はいささかいらついて、「まだ出来ないの。手が空 いたのなら何か作って」と応答する。すると夫は「はいはい」と台所に立つ。私たちの分業には境界はあまりない。




 こんな二人三脚の生活を始めてからかれこれ二八年も経とうか。しかし私たちのタイ アップは、四本の足を三本にするためではない。一人の足を三本にするた めなのだ。そうすると生活や仕事を安易にそして実り多きものに出来るのである。
 実際、こんな人里離れた田舎での暮らしは一人では出来やしない。いや、している人々もいるから、それは私のひ弱さと甘えかもしれない。けれどもエコロ ジーを目的に移住してくると、いろいろな問題が起きてくる。それを解決するには一人よりも二人、二人以上がやりやすいのは事実なのだ。どちらかに欠け、あ るいは豊富な技術や知識、そして肉体的な力をもちよれば、ずいぶんと大したことができるだろう。喜びや希望、恐れや不安を分かち合えば、精神状態はリラッ クスする。
 状況判断をする場合にも、男の目、女の目、第三者の複眼で見ることができるだろう。 生活の些細なことでも自分以外がいるとよい。「ほら、そこの電気を 消して」「ガスの火が大きすぎる」「「これには00が入っているから使わないでね」などと注意されたりしたりすると、エコロジカルな生活はより一層正しい ものとなるのだ。
 自分自身では決めかねていること、家の改造、太陽光発電機や風力発電機を使うこと、知的障害者や〃チェルノブイリの子供たち〃保養ホームステイの里親、 外国のボランティアの参加、そんなことからそれぞれの仕事の内容まで、常に対等に話し合ってやってきた。それらはすべていい結果になっている。
 夫と妻、主人と奥さんの立場を融合しそれを超え、社会的な性差を超えてやっているつもりの私たちだが、それを「子供がいないからできる」と評価される場 合もときにはある。それは事実の部分もあるのだからそれでいい。だが私たちには、犬の息子と鳥の親類と植物の自然という家族しかいないのだから。そして彼 らにはなんと大きな包容力があることだろう。 
 私たちは課せられた運命を受入れ、その状態の最良を保つよう努力していかなければならないと思う。今の家族や社会との関係を肯定できるように。地球と自 分の関係を肯定できるように。『森の生活』のソローは、人間と自然との関係は美しくないと嘆いたが、最悪になってしまった今、美しくなるようにしたいもの だ。と、田舎に住んでいるが、自然はなかなか厳しいもの。台風に土砂崩れ、冷害や干ばつを起こして作物を凶作にする。そうして人間に反省を迫る。 
 ダイオキシンや環境ホルモンは、自然の合成物ではない。遺伝子を操作して動物や作物を改良するのも人間の技だ。それは自然と人間との関係を歪めたゆえの 結果なのだ。
「マイバッグもった?」買い物に出る度にこう確認し合って私たちの二八年が過ぎた。だが世の中は……。世の中はともかく、私たち個人は気持ちよく暮らし、 生きる努力を一生懸命しても、し過ぎることはない。それは、ささやかな幸せをもたらしてくれるし、やるべきことはやるという精神的な爽快感を味わせてくれ る。
 華奢を排してなおかつ貧しくなく豊かに生きること。これをモットーにして私と夫はあれこれ工夫してきた。それは何かを生み出すという創造の喜びに満ちて いる。創造するには多すぎるものがあっては駄目だ、何もないところにこそ生まれる。
 貧乏万歳! 〃空腹〃こそ最良!アンチ(反)は最高!

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6月
 自然の中で自然と共に暮らしているせいだろうか、私は季節や天候に感情を左右されやすい。良いか悪いか、まあ正直であることだけは確かだ。晴 れの日には、 青空に風船が浮かぶように身も心も軽々と浮き上がる。曇りの日には、気圧に押さえつけられるような気がして体ごと重い。そして雨の日。時々の雨は、芯まで しっとりと落ち着くようでとても心地好い。けれども長雨となると、戒められているように気が塞いでしまう。不機嫌な自分をみるのは嫌だが、原因が明らかな ので対策は講じやすい。

 対策の一つは身の回りの整理である。衣替えとか虫干しとかの時期ではないのだが、ご そごそとあちこちを整理整頓する。衣類、本、食器、書類。本格的にやるとなると何日もかかるから、けっこう気が紛れる。
  中学、高校生時代の日記や手紙に読み耽るのもそんな時だ。淡い初恋の記録。下手ながら一生懸命書いていた甘ったるい詩。喧嘩した後に受け取った仲直りの手 紙。当時の人間関係が鮮やかに蘇り、いつの間にか電話で当人と何年かぶりのおしゃべり。それぞれに、忘れていたことを思い出させられて楽しい。(2007 年、それらが『茶箱のなかの宝もの』岩波書店となって出版された。)

「雨が降ったら」

                             も う一つ、気分転換に良いのが部屋の模様替え。長雨があければカアっと明るい夏の陽射しが降り注ぐ。その輝きに合うように、室内のデコレーションを変えるの だ。雨の冷たさのために、カーペットもカーテンも厚手のものだから、涼やかなものを準備しよう。テーブル・ランナーもクッションやベッドカバーも、ラグも 真夏用に。電灯の笠も取り替えたり、すだれもかけたり。そのついでに、いつもはできない細かいことをする。パッチワーク、リフォーム、繕い物。
  中でも染め物はよい。紅茶のでがらしや、ハーブや、タマネギの皮や、そんな台所にあるものをストーブの上でぐつぐつと煮て染液を作る。この中に染める布を 入れてさらにことことと煮る(絹ならそのままでいいが、木綿の場合、二倍に薄めた牛乳に浸しておくと、染まりが良い)。色を定着させるための媒染液は、ナ スの糠漬けに使う焼きみょうばんをぬるま湯に溶かして使う。この中に染まった布をつけて色止めをする。水で濯いで陰干しをして染め上がり。
  染め物をしている間、私は隣のレンジのお鍋で料理をする。染め物の材料は全部台所のものだから、安全。幾つものことを一時に出来て、部屋も暖まり、体も暖 まり、ずいぶん得をしたような気になる。その上、捨てられる運命にあった〃生ごみ〃が、命をとりとめ、こうして布の上で生き長らえることになる。飽きがき たブラウスやティーシャツも新しく蘇り、早く着たい一心で夏がくるのが待ち遠しい。いや、外は雨なのに、私の部屋にも気持ちにも、太陽がいっぱいの夏がも う来てしまったのである。雨の日も、過ごし方一つで快適となる。雨によって大地が生気を与えられるように、私も暮らしの根元で生き返る。