こ の月あの時


© Edward Levinson

10年前の春、そして今年も
 春は突然にやってくる。膨らむ木の芽を見守りながら、もうじきもうじきと思っていても、ある朝突然、春になっているのです。向こうの山の若草色の薄絹の ような梢の間で、白い大ぶりの木連の花が満開。やがて次々に、レンギョウ、桜、キブシ、ツツジと開花が続きます。
 遠目にも春がやってきたのですから、足元では春がおしゃべりをしているような賑やかさ。何種類もの菫の花が、オオイヌフグリやタンポポやペンペングサや カラスノエンドウの野の花と一緒に、ざわざわざわっと。そんな春の風景は、絹地に描かれた友禅染めのよう。
 その華やかな着物を身にまとい、私の暮らしも少しおしゃれにしようと思います。からだの中を春一番の新鮮な風と清浄な水で満たす。心の中を優しさと楽し さ、明るさで照らす。家の中を光と風で一杯にする。その内側をもって外側に働きかけるなら、外側も同じようにすることができるかもしれません。冬の冷たさ と暗さ、辛さと困難を乗り越えてきた私たちですもの、大いに春の暖かさと楽さかげんを満喫しましょう。苦あって楽あり。
 冬は限られたものだけがその苦難を回避できるけれど、春は、誰にでも平等に恩恵をあたえてくれます、動物にも植物にも、鳥にも虫にも。太陽も水も風も、 誰彼分け隔てなく照り降り吹きつけます。そうして私たちは、からだや五感に快感を得るのです。
 けれども……、こうして自然の恵みを存分に受けていると、冬のさなかに苦労をした人々に心がいきます。大震災で家を失い、暮らしの手段をすべて失って、 厳しい寒さを精神力だけでしのいできた人々。雪の降る日本海で、坐礁したタンカーから流れ出た重油を、一本の柄杓と一本の腕で汲むという重労働をした人 々。その人たちにも春はやってきたでしょうか、心とからだの中にまで。
 せめてこの太陽と春風の温さが、凍りついた人々の心を溶かし、固くなったからだをほぐすことを願いましょう。遠くからは、そうした祈りしかできない無力 な自分を恥ずかしく思うのですが。
 気候が暖かくなると、我が家は人の訪れでにぎわいます。中でも迎え甲斐のあるのは、迎えるのはこちらとしてはちょっとしんどいけれど、悩みのある若い人 々。ぼおっとした春の農村風景の中にいると、きっと気分もおおらかになるのでしょう、ずいぶん元気になります。 若いときはとかく〃自分〃にこだわりが ち。自分がどうするか、自分がどう考えるか、自分が他人からどうされるかで傷ついたり苦しんだり。「自分から少し離れてみたら。そして回りにいる他人のこ とを少し考えてみたら。ずっと楽になるわよ」と私はアドバイスをします。ある人はボランティアをしたり、ある人は趣味や勉強を始めたり。すると少しずつ、 自分を縛っていた鎖がゆるんでくるようなのです。
 この世の中では、自分一人だけでは生きていけないことは自明の理。だから自分も大切だけれども、もう半分は他人や社会のことも考えなくてはならないので はないかしら。でもどうしても、目前にある自己の快楽や利益を追ってしまうのが凡人の悲しいところ。 「ほら、あの花に止まっている蝶々を見て。何をして いると思う?」「花の蜜を吸っているんでしょう。」「ええ、でもそれだけではないのよ。蜜を吸うのは自分のため。でもね、花粉を運んで、別の花を咲かせる 仕事もしているの。」彼女は恥ずかしそうな顔をして下をむいてしまいました。
 めくるめく饗宴の繰り広げられている野原は、こうして私たちにいろいろなことを教え、学ぶための教材になってくれています。これで今日の授業は終り。さ あ開きましょう、春の祝宴を。野の草も木々も花々も、春の微風にゆら〜りゆら〜り。私たちも誰に気兼ねすることもなく、ぼんやり、のんびり、だらり、うっ とり。いつのまにか、からだも心もとろけだし、軽々として野の上を飛んでいる、蝶々のように。