こ の月あの時


© Edward Levinson

「田舎の穴物語」

   実も葉もすっかり姿を消した柿の木の天辺に、たった一っだけ残ったしわしわの実が、つい先程までの秋の豊饒さを恩い出させてくれる。あれほど木に 集っていたカラスももはや一羽も来ない。イチョウの葉の黄色も日に日に襯せていく。森の中では、はっきりとは見えないけれど、冬ごもりの準備をする動物た ちが忙しく動き同っているにちがいない。その野生動物のように、山や森の中を這い回って何かを探している人間もいる。
  彼らが何を探し、見っけ、持ち帰ったかは後に遺されたもので分かる。いや遺されたのは物ではない、穴だ、空洞だ。子どもならすっぽりと人るほどの人き さの穴。だがそこから掘り出された実物を見ると意外に細い。山芋である。山芋にもいろいろ種類があるから、天然物は自然薯と呼ばれる。これを見つけて掘る のは容易なことではなく、それが出来るのは山菜採りのプロだ。
   時には一メートル近くの長さにもなる芋を、折らないように気をつけて、専用の木製の一種のシャベルで、少しずっ少しずっていねいに収り出す。とその 道の名人は教えてくれた。一度見たいものだが、「私もその場所へ連れて行ってくれないかしら」と言っても駄目。決して他人に宝の在処を教えたりはしないの だ。それは自然薯に限らず、茸類や果実や他の山菜も同じである。欲しければ自分で探すのがルールなのだ。山道を行きこの穴を見つけると、「よし、来年こそ はここに来て山芋を掘りましょう」としっかりと地図に書きっけるが、遅きに疾して一度も成功したためしがない。l私は田舎に移ってきて以来、山芋はもっぱ ら堀りたてのお裾分けに預かっている。
   お宝が隠されていた穴を見つけるのは喜ばしいことだが、困った穴もある。ある時、白分の庭の隅を歩いていて、少しゆるい地面に足を乗せた途端、ズズ ズッと土の中に落っこちてしまった。腰まで埋まり、腰と足をひどく痛めてしまった。「こんなところにどうやって空洞が出来たのかしら」とびっくり仰天。夫 に見せて謎解きをした。
    結論はモグラの穴である。モグラが掘った小さな穴に、たまたま水の道がぶつかり、水が流れる度に穴が大きくなったのだ。そういえば、いつか農民が そのようなことを話していたっけ。それが現実になったのだ。水は石をもうがつから、モグラも掘れるほどのやわらかい土なら簡単に大きな穴を作れる。こう考 えてアッと思った。大雨や台風で土砂崩れの災害が起こる。きっとそれは、モグラが作ったようなこんな小さな穴が発端かもしれない。そう連想すると、丘の上 にあるとはいえ、我が家でも土砂崩れは起こり得るのだ。大きな天災でも、もともとの原因がこんな小さなものにあり得るとは。これからは地面のどんな小さな 穴も侮れない。
    時々我が家を訪れて、生ゴミの堆肥の中から何やらを食べていた狸の夫婦の姿も見かけなくなった。この森のどこかに二匹が人れるくらいの穴を掘って 冬ごもりの準備でもしているのかしら。いや、一匹はおなかが大きかったようなので、家族が増えたかもしれない。狸は家族そろって同じ穴で生活するというか ら、掘る穴もきっと大きいだろう、とその労働の大変さをしのぶのはお節介だろうか。狸はムジナとも呼ばれる。そこで「同じ穴のムジナ」なのだ。この諺は悪 い意味だが、良くとれば、寒い冬をお互いに身を寄せ暖め合って暮らす、なんてすてきなことになるではないか。
   晩秋の空気は冷たく身に染みる。枯れ葉が嵐に吹かれてかさこそと音を立て、まもなく冬がやってくることを告げている。私たち人間も冬ごもりの準備を する時が来た。が、経済活動をするのが人問だ。冬眠してはいられない。冬にも活発に動き回れる環境を作り出す知恵と技術を人間はもっている。それを活かし ながらも、時には自分の穴を作り、その中でじっくりと、墓穴を掘らないような生き方を考えるのもいいかもしれない。
             yuai2005/11月号